Embodiment

こんばんは。ボルダーは今日もいい天気、最高気温は28度でした。

今日は、週の中で一番キツい火曜日でした。火曜日には授業を3つとっており、最後が一番重い、Language and Gender, Sexuality のディスカッションのクラスです。

周りがほとんどアメリカ人、あるいは英語ネイティブな上、リーディングの内容やディスカッションのテーマが難しいため、とてもキツいのです。

 

"If you don't speak, you are regarded as a person without idea."

と言われたことがあったため、また(奨学金のために)いい成績を取らないといけないこともあり、「必ず一回発言する」ことを最低目標に掲げています。

先週は(リーディングにかなりの時間を費やしたのにもかかわらず)、本当に一回しか発言できず、しかも大した意見が言えず、終わったあとでかなりへこみました。そこで、先週の授業後から一週間、勉強時間のほとんどをこの授業のリーディングと準備に充てたところ、なんと3,4回、アクティブにディスカッションに参加でき、教授からも褒められました。そのため、夜は一人でビール(コロラドはビールがとても有名なんです)を飲んで、ご褒美のサーモン(一切れ600円くらいで高いため、上手く行った日に食べることにしています笑)を食べました。笑 来週に向けて今からまた準備せねば。

さて、標題の"embodiment"という概念、本日のディスカッションのお題でした。日本語にすると、「具体化」辞書には載っているかと思います。

embodimentに関する言語学の論文では、ことばは身体から生まれるもので、言語学の研究においてもことばだけでなく身体(ジェスチャーやプロソディー等)を見ることの必要性が指摘されたりします。

embodimentに関わる概念に、process of ideologyというものがあり、最も印象に残りました。ideologyを通して、文化的・歴史的要素によって作り続けられていくbodily practiceの社会的意味というのは消され、その代わりにinherent and fixed in the bodyとしてみなされるようです (Bucholtz and Hallの"Embodied sociolinguistics"参照)。

 

上記の説明は英語と日本語とが混じり大変へたくそですが笑、要は自分の周りにある社会的文化的要素というのがideologyのプロセスの中でだんだんと身体に取り込まれ、自分のものになっていくということなのではないでしょうか。

この考え方を読んだときに、禅の思想(西田幾多郎・和辻哲郎など)が思い浮かびました。禅の考え方には、私達の身体は外の世界(自然)と繋がっているという考え方があります。例えば、お茶を飲んだときにお茶は体内に入り、その瞬間にお茶があった空間とそこにいる自分の身体が繋がり一体化する、と考えるそうです。

こういった思想は、西洋の伝統的なデカルト的な考え方、つまり心身二元論とは違う訳ですよね。

根本にある考え方が違うからこそ、ことば自体・その使い方・それによって表現される世界が違うことは必然なんだなー、と改めて思いました。

 

そして自分は、やっぱり日本人なんだなと、今日も実感。。笑

今日はなんとなく楽しい気持ちでブログを終えられてよかったです。